#56:好きなモノから興味を広げて~いちご編3

こんばんは。

 

日本列島が雨雲の通り道になった日でしたが、皆さんは、いかがお過ごしでしょうか。

 

本日は、再び「いちご」についてです。

スーパーの青果コーナーからいちごが少なくなり、旬は過ぎたのですが、贈答用くだものコーナーには、粒の大きさが揃ったきれいないちごが並んでいます。

新たに白い色のいちごも並んでいます。

いちごの品種はどのような系譜なのか、と知りたいと思いました。

 

いつものように、インターネット検索に当たると、ありました。

農林水産省の公式ホームページ内(「いちごの原産地や歴史についておしえてください。」より一部引用)

今から約200年前の18世紀にオランダで、南アメリカ原産のチリ種と、北アメリカ原産のバージニア種がかけあわされて、いまのようないちごが新しく誕生(たんじょう)しました。

日本にいちごが伝来したのは江戸(えど)時代末期で、オランダ船で長崎(ながさき)にもたらされたことからオランダいちごとよばれていました。栽培用(さいばいよう)の品種の導入(どうにゅう)はアメリカから明治の初めにされましたが、定着しませんでした。

 

 

一般社団法人国民公園協会のホームページで紹介されている新宿御苑の中で、いちごの歴史に触れられていました。江戸時代から園芸植物として鑑賞され、明治時代後期に新宿御苑内で青果として国産いちごが生まれたとありました。

明治時代の新宿御苑は、農作物や園芸植物の栽培試験場である「内藤新宿試験場」として、海外からさまざまな樹木や野菜、果樹を導入し、栽培研究が行われていました。その後、明治12年(1879)に新宿御苑の土地が皇室に献納されると「新宿植物御苑」に改称し、皇室の御料地・農園として運営されました。

明治31年(1898)、新宿御苑の農学博士であった福羽逸人(ふくばはやと)は、フランスの「ゼネラル・シャンジー」というイチゴ品種から国産イチゴ第一号となる「福羽苺」を作出しました。当時の新宿御苑は皇室の御料地だったことから「御料イチゴ」とも呼ばれ、門外不出とされましたが、その後、全国に広まってゆきました。

 

国産一号を生み出した福羽逸人 さんは、何を思いながら開発され、最初の赤いいちごを見た時には何を感じたのか。「御料イチゴ」としてどこに行ったのか。ここにも、物語があるように感じました。

 

福羽いちごからどのように品種派生したのかを調べていくと、「イチゴ品種育成系譜図」という名称のサイトに出会いました。

福羽いちごの親となるいちごの品種から、今日のいちごに繋がる系譜をたどることができます。この系譜図上で、ある種のいちごの名前をクリックすると、その品種の元となる3代前の別の品種まで辿れるようになっています。その中には、知った名前もありますが、「地名+数字+号」「系+数字」で表示された品種が点在しています。市場に出回ることはなくても、何かの親としての役割を担っていると判ります。

この系譜図に掲載されずに、どこかで系譜が途切れた品種も数多くあるのだろうと、その数字から推察できます。

 この系譜図を見ていると、品種開発に関わる人々の情熱に想いを馳せると共に、載っている品種が擬人化されてきます。番号として残らなかった品種が、その時そこに存在する理由があったのだなあ、と思いが流れていきました。

 

また、いちごが好きになりました。

 

健やかな一日をお過ごしください。

では、また。